歴史

神戸ゴルフ倶楽部

各種競技と女性ゴルファー

3シーズン目に入った倶楽部では、男女各種の競技が始まり「日本初」の記録として残されている。キャプテンズ・カップを初め、月一度のアンダーハンディ競技を「ノミネーション」と名付け、その勝者でシーズン終わりに決勝戦を行っている。今で言うマンスリー・カップ、グランド・マンスリー・カップである。ロング・ドライビング競技が行われ、R.H.Clarkが169ヤードの記録で優勝。また、1906(明治39)年に初めてのホールインワンが3番ホールでE.F.Dorfingerによって記録された。

創立当初から、婦人会員は認めていなかった。翌年に「婦人も会員に」との声も出たが、賛成を得なかったが、長いスカートの裾をひるがえしてクラブを振る女性の姿が見かけられたのは、土曜の午後と日曜の午後4時までを除けば、会員の夫人と家族はゴルフをすることが認められていたのである。

1905(明治38)年には、日本初の婦人競技(Ladies Competition)があり、婦人のフォーサム競技も行われた。婦人競技は、18ホールズ・メダル競技なども行われている。

1906(明治39)年、当倶楽部最初のパッティング競技が行われた。その後、毎年行われたこの競技は、婦人のゴルフ上達した理由からか、アプローチ・アンド・パッティング競技と名を変え、良き時代の終わる1937(昭和12)年まで、夏の倶楽部行事の一つであった。戦後、1981(昭和56)年に再開され、女性会員及び会員家族も参加し、再び夏の倶楽部行事となっている。

キャディのこと

当時、「玉ひろい」と呼ばれていたキャディは、六甲山麓の村の少年たちで、土曜日の午後と日曜日にはゴルフ場に通ってきた。キャディたちは暇があると棒切れなどでゴルフのまね事をし、時には客のクラブを拝借して練習する者もいて、ゴルフの腕前も上達した者も出てきた。

倶楽部では、1905(明治38)年10月に、最初のキャディ競技、10ホールズ・メダル・プレーを行い、グロス50で通称Bullet Head・横田留吉が優勝した。
1906(明治39)年6月にロンドンで発行された「The Badminton Magazine of Sports & Pastimes」に神戸ゴルフ倶楽部の紹介と共に「Bullet Head,Winner of Caddies'Championship,1905」として見事なフォームの絣の着物を着た子供の写真が載っている。

これ以降、倶楽部ではシーズンの終わりには、菓子や弁当を配り、キャディ競技を行っている。現在、キャディの多くは大学又は大学院の学生アルバイトであるが、キャディ・トリートの伝統を守り、倶楽部行事として親睦キャディ競技を行い、彼らの日頃の労をねぎらっている。

往年の名プロゴルファー宮本留吉も13歳からここでキャディをし、中上数一、越道政吉らプロゴルファーも神戸ゴルフ倶楽部のキャディ経験者の中から誕生している。

日本人会員と倶楽部の発展

創立当初から数人の日本人会員が名を連ねていたが、名誉会員的な存在であった。
神戸ゴルフ倶楽部で最初にプレーした日本人は、1905(明治38)年に入会した小倉庄太郎とその妹の末子と言われている。

1912(明治45)年、松平慶民(後の宮内大臣)が入会し、英国留学中にイギリスでのマナーとゴルフを身に付けた紳士で、極めて評判もよく、ハンディキャップも12であった。然し1917(大正6)年頃まで会員の中に、日本人の入会を厳選しようとの動きが出て、日本人の入会は極端に制限され、この間に2人の日本人の新入会員の名があるが、プレーをしたとかハンディキャップを取ったとかの記録がない。この理由は明らかではないが、この5年間に入会できたのは、大谷光明の他1名である。

1918(大正7)年以降、厳しい審査路経て入会した会員には、南郷三郎、星野行則、松本虎吉、広岡久右衛門らがおり、いずれも後に日本ゴルフ界に貢献した人々である。

1914(大正3)年の第一次世界大戦の前後を境に、日本人の経済力も強くなってくると、一方、外国人の活躍する場が次第に狭められ、帰国する人が増えてきた。1921(大正10)年頃から経済的に余裕のある日本人が、帰国する外国人に代わって、新たな会員として加わり、徐々に日本人会員の比率が増え、1926(大正15)年には外国人対日本人の会員数が83対98と逆転した。

倶楽部には日本人のほかイギリス、ドイツ、アメリカなどさまざまな国の人々が、何のこだわりもなく集まり、コースでの熱戦は19番ホールに持ち越されて、ベランダや当時、女人禁制のバーと男子休憩室では、週末には夜遅くまで続くのが常であった。

何時から始まったのか定かではないが、11月末頃に、そのシーズンの19番ホールの総仕上げというべき祝賀晩餐会を神戸外国倶楽部で行い、その主役は倶楽部選手権の優勝者だが、その年の倶楽部競技の優勝者も名を連ねて会員を招待している。

昭和に入ると、ドライブウェイやロープウェイ、ケーブルの開通が相次ぎ、六甲山の開発は急ピッチで進んでいった。

1933(昭和8)年頃には、山上には日本人の別荘も増え、共同山荘として大阪の青年実業家の「サースディ倶楽部」、壮年実業家の「甲子倶楽部」、銀行家を会員とする「晩霞倶楽部」が建てられ、会員も日本人会員が3分の2以上を占めるようになるが、倶楽部の運営は外国人を中心に行われていた。

現在の当倶楽部の宿泊設備「チェンバー」は、戦後、「サーズディ倶楽部」から買い取ったものである。

一方、創立以来のサンドグリーンについて、1911(明治44)年グラスグリーンを試みたが、六甲山上で芝は育たないと断念されたが、1927(昭和2)年に再び計画が持ち上がり、100坪の養成場で芝のテストをしたが失敗に終わった。

再度、1929(昭和4)年の春、高麗芝を10番グリーンに植えると好結果を得たので5年をかけて、1933(昭和8)年までにグラスグリーン化を実現した。

開場当初から28年間使われていた質素なクラブハウスも、1932(昭和7)年に著名な設計家W.M,Voriesの手により建て替えられた。
建て替えられたクラブハウスは、現在、近代産業遺産として登録されている。

暗黒の時代から戦後の再開

1937(昭和12)年に日中事変が勃発するや、各種統制令をはじめ戦時体制が急速に人々を縛りはじめた。戦局の悪化とともに、各地のゴルフ場は軍用地や農耕地として徴用されたが、神戸ゴルフ倶楽部は山上という立地のためか、徴用を免れ、1942(昭和17)年まで倶楽部選手権が行われ、1944(昭和19)年までプレーも可能だったが、ゴルフをする人もなく雑草だらけとなっていた。1945(昭和20)年春、県の農業試験場によりジャガイモなどが植えられ、海軍療品廠によって麻酔用の朝鮮アサガオが植えられたが、殆ど収穫をみることなく終戦を迎えたのである。

戦後、ほどなく米軍によって米軍のゴルフ場として接収され、復旧をいそがれて1946(昭和21年6月にはまがりなりにも9ホールの使用が可能となったが、グリーンは高麗芝の寄せ集めであった。国内では芝の手当てが難しく、米軍によってベントグラスの種が空輸され、高麗グリーンの上にオーバーシードを行い、1948(昭和23)には18ホールが甦った。

1949(昭和24)年には倶楽部の努力で、会員がプレーする許可を米軍から得、占領下とはいえ、国際色豊かなゴルフ場として復活したのである。

そして1952(昭和27)年2月には返還を受け、同年4月に戦後初の総会が開かれ、倶楽部は再開の第一歩を踏み出した。

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